2004年03月07日

■■■■■は「妻の代表」としてモノを語るな

 「■■■■■■」という肩書きで日経新聞の夕刊にコラムを書いている、■■■■■という女性をご存知だろうか。私が初めてこの人の文章に触れたのは、10年くらい前になるだろうか、朝日新聞を購読していた頃のことである。10年前といえば、若気の至りで私の考え方は今よりずっと軸が左に寄っていたのだが、その当時からこの人は「なに言ってやんでい」と思うようなコラムを書き飛ばしていた。一昨年横須賀市に別宅を構えたときに私は日経と朝日の2紙併読とし、昨年3月に別宅を引き払うと同時に朝日を打ち切ったが、■■氏の日経コラムはちょうど日経単独にした頃に始まったような気がする(確かめていないが)。日経での■■氏のコラムにはこれまで違和感を感じなかったから、■■氏自身が少しは成長したのだと好意的に捉えていた。無論、日経には朝日と違って奇形左翼みたいなことは書けないから、私の思考の右傾化ともうまくマッチしていたということはあるかもしれない。

 その■■氏が、ひさびさにやってくれましたねえ。日経の3月6日付夕刊(東京本社)9面「■■■■■■■」。要旨をまとめておくと、おおむね次のような内容だ。
 「とっさの来客時のスピード片付け術」に関する番組に出た。「夫が夜、飲んだ後に部下を連れてくると駅から電話があった。片付いた家で、手早く料理を出していい奥さんと思われたい」。そのための料理とそうじだという。確かに、気軽に立ち寄れる家はいい。でも、それはお酒を飲んだ客を家にいつ連れてきてもいいということではないし、その人たちをもてなさなくちゃいけないないうこととも違う。まして、いい奥さんと見られたいからそうじや料理するわけでもないし、それを期待する夫というのも、筋が違う気がする。
 ごねたが結局設定は変わらなかった。理由は「アンケートで一番困っていると主婦からあがってきたのが、この設定だから」。「アンケート結果」というのは、くせものだ。聞き手が「こういう答えがほしい」とバイアスのかかった質問の仕方をすれば、ちゃんと見合った答えが集まる。一番困る急な来客はだれ? そう聞かれれば、「夫が酔って連れてくる同僚」。その正しい対策は「今の時間はおもてなしできません」と断ること。本当におもてなししたいのは、「寄ってくれてありがとう」「また来てね」って言える人たちのはず。そんな人を迎えるためのスピードそうじ術なら、私は大歓迎。そのために腕をふるいたかったんだけどなあ。

 言いたいことはいくつもあるが、今回は一つに絞ろう。夫が部下を自宅に連れてくることを「いつ連れてきてもいいということではない」という言い方をしている点だ。

 たいていの夫はそんなことは思っていない。部下を自宅に連れてくるなど、やむにやまれぬ最小限度の回数しかできないだろう。なぜかと言えば、後が怖いからである。まさに■■氏が今回発しているような罵声を妻から浴びせられることが目に見えているのだ。夫は、そのくらい妻に対して気兼ねをしているのである。

 自分の妻に頭が上がらない上司というのは、部下の立場ではごめんこうむりたいものである。なぜかというと、自分の妻にさえ思ったことが言えないようでは、仕事上さらに上の上司と掛け合ってもらったりということが望み薄だからだ。だから、よほど自分をあけっぴろげにして部下全員から信頼を得る自信がある者以外、たいていの上司は恐妻家のイメージを恐れる。特に酒の席で部下を自宅に招くような場合、もちろん回避する努力はしているだろうが、何らかの理由でどうしても止むを得ないとなったら、上司としての威信とその後の家庭生活とを天秤にかけてかなりの決断を迫られるはずだ。「駅から電話」というのはそうした熟慮の結果だろう。本当に何も考えていない夫なら、何の予告もせずにいきなり連れてくるのではないか。

 そうした電話に対して「今の時間はおもてなしできません」と断る? 女というのは何と残酷な生き物だろうかと思う。これで、あなたの夫は会社での威信失墜である。部下の信頼が得られない以上、窓際コースまっしぐらだ。男性はそういう社会で生きている。女性には理解はできないかもしれないが、理解する努力ぐらいはしてもらいたい。

 男と女、社会的な立場も違えば考え方も異なる。まさに違いずくめの二人が共同生活をしているのである。そのパートナーが社会生活上の危機に瀕しているのだ。「妻が夫を」だけでなく「夫が妻を」のケースもあるだろうが、夫とか妻とかいうこととは関係なく、パートナーとして助けてやろうというふうには思わないのだろうか。こうした信頼関係があるのでなければ夫婦は成り立たず、だからこそ信頼関係のなくなった夫婦をつなぎ止めておくものとして「子はカスガイ」などと言われてきたのである。

 根本的に■■氏は、結婚生活というものを、経済的な庇護を受けた女性が勝手気ままに振舞うように捉えているとしか思えない。これは結局、一昔前までの寄生虫的な専業主婦の姿でしかないだろう。こういう女性を「妻の代表」にしてはならない。

【2010.02.14追記】ひさびさに自分の書いた文章を読み返しました。書いている内容を変更すべきとは思いませんが、実名を挙げての批判は激烈であったと思います。こっそり抹消してもよいのですが、やはり自分の書いたことには責任がある、と思います。検討の結果、実名およびそれに類する部分を伏字に変えさせていただきました。ご了承下さい。
posted by 為栗 裕雅 at 02:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月27日

サイト運営者の拠って立つ地盤とは

 突然ですが、ミスドのキャンペーンカードの「あたり」は「100枚に2枚」です。
 ちなみに、年賀葉書の末等(小型切手シート)は、100枚に3枚です。

 なぜこんなことを書いたかというと、ある掲示板で愕然とするやり取りがあったからです。
 そのことを書く前に、ミスドの最近の動向を解説しておきましょう。一定金額の購入でもらえる「ラッキーカード」が、昨年秋に突如点数スクラッチを廃止して「ミスドカード」にリニューアル、その後今年6月からこのような形でスクラッチが復活しました。当たりが出ると、今回のキャンペーン(10月3日まで)では「ポン・デ・ライオン携帯ストラップ」がもらえます。当たりはなかなか出ません。私は今月既に5000円以上ミスドで出費していますが、1枚も当たっていません。この当選確率は、種々の情報から「1/50」であることがわかっています。つまり、100枚につき2枚ということですね。

 さて、私は情報収集の一環として、あるミスドのファンサイトをのぞいています。ここの掲示板は単に「ミスドが好き」というだけの集まりで、ほのぼのとした雰囲気が漂っています。誰でも読み書きできる通常の板のほか、パスワードを設定した従業員専用の板もあります。
 先週、ある人がストラップが当たった話を書いていて「あたりは何枚に1個くらいなのでしょうか?」と締めくくっていました。これは誰しもが抱く疑問でしょう。これに対して、ミスドでバイトしているらしい人が「100枚に2枚です」と書き込みをしました。この人は偉いですね。ちゃんと有益な情報を提供しているわけですから。
 ここで、別の「働きさん」(従業員のことを内部でこう呼ぶ)がクレームをつけました。いわく、誰もが見られる通常の掲示板に確率を書くのはいかがなものか、これは企業秘密であり、客もはっきりした数字を見て購買意欲をなくすかもしれない。いやー、このカキコをした人は、仕事熱心な正社員なんでしょうな(もちろん皮肉です)。

 私が問題としたいのは、その後のことです。このBBSの管理人はなんと、正社員(?)のカキコに応じて、確率の具体的な数字の部分を、管理人権限で伏字にしてしまいました。

 管理人氏は、自分のサイトの持つ属性がわかっていないのではないでしょうか。
 まず、自分が会社(ダスキン/ミスタードーナツ)の側に立っているのか、それとも会社外部のファンの側に立っているのか、ここをはっきりすべきだと思います。
 次に、管理人氏が会社側に「立とうとしている」ことは理解できます。一般用と従業員用の2種類の掲示板を運営している事実その他から。しかし、氏が「内部の立場に立つ」のは、本質的に無理だと思います。
 なぜかというと、氏が外部の人であるからです。内部と外部との間には、ある種「超えられない溝」があります。外部のファンとして知りたい情報(たとえば店舗のクローズ情報など)は、内部にとっては教えたくない情報であることが多いからです。こういう根本的な対立関係がある以上、外部の人間が内部の側に立って何かしようとするのは無理なのです。もちろん、利害が一致する部分で内部の人と仲良くやっていくのは異存ありませんが。

 こういう考えからして、カキコの数字の部分を伏字に変えてしまったのは、とんでもない自殺行為であったと私は思います。正社員が余計なくちばしを挟んでこようが、ここは断固として発言を死守すべきではなかったでしょうか。特に、ミスドの正社員はこういう横槍を入れる人が多いと感じますので、余計にそうですね。
 管理人氏がサイトの運営そのものについて悩んでいるのは知っていますが、それはこうした「自分の立場の不徹底」がかなり大きいのではないでしょうか。ファンサイトを運営する「同士」として、敢えて苦言述べさせていただきました。

 当「遊牧民の窓」についても同じことが言えます。基本的に私は、ミスドやりそなグループについて、はっきり味方している側です(就職しようとしたことはありませんが)。しかし内部の人間ではないので、店舗のクローズ情報など「為栗ニュース」でバンバン記事にしています。記事の削除を要求されたとしても、理由が正当であると納得できない限り突っぱねます。もちろんこれは、私の考えがこうだということであって、他人様に強制するものではないのですが。

 以下は蛇足。
 管理人だけ槍玉に挙げましたが、この件は他にも色々と問題をはらんでいると思います。
 「はっきりした当選確率を知って客が購買意欲をなくす」というのは、どうなんですかねえ。クジ屋じゃなくてドーナツ屋なんですから、別に知れたところで「ふーん」で終わりだと思うんですけどね。第一、客寄せのカードのクジの当選確率が知れたぐらいで購買意欲をなくすような、そんなチンケな商品を作って売っているんでしょうか。当選確率を知らせることで公正なくじの運用をしていることになるとは思いますが、こんな情報すら「企業秘密」にしているとしたら常識を疑います。こんな体質ではまた不祥事を起こすんじゃないか、とすら言いたくなる。そういう意味で、最初の「100枚に2枚です」というカキコは、健全な情報提供と言えるでしょう。
 また、バイトには高校生からいるので、そういう人に教える情報に機密の類があるわけないです。もしあったらそれは教えた会社側が悪い。「守秘義務」とか言ってもわからない人が世の中にはいっぱいいるからです。さらに、バイトの他愛もないカキコを「企業秘密」とは、正社員としてもお節介極まりないと思います。

続きを読む
posted by 為栗 裕雅 at 18:16| 東京 🌁| Comment(1) | TrackBack(1) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月01日

ブログの記事は楽しいですか?

 この記事はパラドックスになっています。理由は読めばわかります。

 RSSリーダーというソフトを最近使い始めました。いくつものブログや掲示板を巡回する手間が省けるだけでなく、キーワードを設定すると、そのキーワードの入ったブログの記事を自動的に拾い出してくれます。
 「キーワード設定」の機能を使ってブログの記事をウオッチしていると、中には有益な情報もありますが、気が滅入ることのほうが多いです。理由は二つ。一つは、愚にもつかない感想みたいなことしか書いてないのが多いこと。ま、これについては、私自身もそういう記事を出してますので(たとえば昨日の昼下がりに出したこれとか)、人のことは言えないのですが。蛇足ながら言い訳しておくと、私の場合は、そうした記事の中にも何らかの情報もしくはメッセージを織り込むようにしています。日曜昼の記事では、「店内に第九」という季節の話題と、「明日は年賀葉書の発売日」という忘れているかもしれない情報。敢えて「新紙幣の発行」は入れませんでしたが。

 もう一つ、これが厄介な本日の本題。
 怒りや愚痴がとっても多いんです。それも、あまりに理不尽な内容が多い。
 「りそな」というキーワードで集めたブログの記事からは、記事の筆者がりそな銀行のサービスや応対に不満を抱いていることがわかります。状況はりそなに限らずミスドだって同じなんですけど。それはいいんですが、記事での批判は、私から見ると「それはないんじゃないか」というものが多い。たとえばりそなについて「5時まで開いてる窓口で、税金の納入書を3時過ぎに持っていったら、3時までですと突き返された、胸くそ悪い」みたいな。自行だけではどうにもならない部分というのがあるでしょうが。マクドだって朝10時まではハンバーガー買えませんよ。「ミスド」でも見つけました。「今日までです、と言ってミスドカード渡されてもうれしくない」って、もらえるだけいいじゃない。あなたドーナツ買いに行ったんでしょ。ミスドに今日行ったって、カードなんかもらえませんよ。今日と明日はプレプロ(キャンペーン期間の端境期)なんだから。
 しかも、そういう理不尽な感情に基づいて、記事にはだいたい罵倒の言葉が入っています。使えないだの、胸くそ悪いだの。自分に向けられた罵倒でないとわかっていても、読んでいて気持ちのいいものではないですね。

 でも、これだけなら問題は小さいのです。一応キーワードに関する記事ですし。
 こういう記事が引っかかってくるんですよ。ある日「★★★」というキーワードで発見した記事は、こういう内容でした。(おことわり:実際の記事に基づいて為栗が同じ内容で作文したものです)
 ★★★でランチ、百均で買い物、その後スーパーで商品を眺めていると、常に同じ人影が自分の視線に入った。若い男で服装はダサめ、怖い雰囲気ではないが気味が悪い。
 その男が寄ってきて話しかけてきた。
  男「あ、あのう…」
  私「はい?」
  男「僕の事覚えてますか? あの…」
  私「は?」
  男「僕ずっと前から、あのッ!ス…」
 私は「何なの!? 超キモい!!」と思って、その男を一切無視して足早に避難した。すると男もすぐに店を出たようで、もう姿を見せなくなった。しかし私は怖いので、店員さんに「変質者がいる」と事情を説明(あまり相手にしてくれなかった)。店を出てからも、近くにいるかもしれないのでおびえながら帰宅。
 ストーカー被害にあってる人はいつもこんな怖い思いをしてるんだなあと思った。近所にも変な人はいるものだ。これからは戸締りや鍵閉めをしっかりやろうと思った。
 何か最近ついてない。

 この記事、「★★★」は単に最初に出てくるだけで、全体の内容と関係ありません。
 そして、全体の内容…。勘弁して欲しい。ここでは為栗の文体に書き換えてありますが、原文は生の感情むき出しの読むに堪えない文です。本当はこの記事だけで痛烈な女性批判の記事を書きたいぐらい。この筆者はなんて残酷なんでしょうか。仮にも自分に好意を寄せている人物(相当不器用みたいですが)に対して、「気持ち悪い」を理由にここまで口汚く罵ることができるんですから。そりゃ店員だって相手にしたくはないでしょうよ、こんな女。
 これで「“誰かを想う気持ち”を忘れないように書いている日々の日記」という趣旨のブログですから、あきれ返ります。RSSリーダーで拾った時と、この記事を書く時の2回、私はこの記事の原文を読みました。もうたくさんです。
 原文には「あなたは残酷な人ですね。」とコメントしておきました。(2004.11.03 01:11追記:コメントはソッコー削除されたようです)

 というわけで、この記事がパラドックスである理由がおわかりですね。ブログの記事が「楽しくない」という批判をしているこの記事そのものが、批判されている記事の条件をそっくり満たしているからです。別の言葉で言うと「天に唾する」となります。
 かつてブログにこんな記事を出しました。この中に「不吉は言うべからず」という項目があります。悪いこと(事実のほか感情なども含む)は、口に出して言ってはいけない、と。わかっちゃいるんですよね。でも、自分が何か自己主張したいときというのは、たいてい何らかの形で「不本意」の感情を伴っています。何かを批判する時は、それが自分の本意と異なることの指摘であるわけです。故人を悼む記事にはその人が亡くなったという喪失感が入っていますし、夢の内容を記述して「なぜだ」という文章には、その夢の内容が理解できないという不本意な感情が根底にあります。もちろん心から喜ばしい気持ちで自己主張することもあるのですが、私の場合は非常に低率ですね。悩み多きこの世において、不本意なことすら楽しんでしまう能力のある人を、心底うらやましく思います。私は不本意は不本意としてしか解釈できませんので。

 「ここまで文句たらたら言うんだったら、キーワード設定でブログ記事ウオッチするのやめろよ」という声が聞こえてきそうですね。もちろんやめはしません。わかりきったことです。貴重な情報はこういうゴミの中に埋もれていることが多いのですから。

 ほなさいなら。
posted by 為栗 裕雅 at 12:03| 東京 ☔| Comment(4) | TrackBack(1) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月07日

ももせいづみ氏を軽く叱る

 生活評論家のももせ(百瀬改め)いづみ氏については、以前こういう記事を書いたことがあります。日本経済新聞夕刊の「快適くらし予報」という連載は注意深く読んでいますが、その後は奇形左翼みたいなことを言うこともなく、生活情報を非常に質の高い文章にまとめていると感心しながら読んでいました。不遜ながら「人間は成長するものだ」ということを思います。
 というわけで、久しぶりにぽろっと出た部分については、軽く叱る程度で済ませます。6日(土)の夕刊「食器の曇り『酸』で解消」。食器洗い機を使い続けていると、水道水に含まれるカルキの成分で食器に曇りが出るようになる、という内容。
特に曇りで悩んでいないという友人宅では、「夫が下洗いしてからセットする」「乾燥機能を使わずふきんでふいている」という話が。(以下略)
(日本経済新聞、2004.11.06夕刊9面)

 食器の下洗いをする人をわざわざ「夫が」と特定することに、文脈上何の意味もありません。こういうところに、この人特有の「家事は何としても夫にさせなければならない」というイデオロギーがぽろっと現れていると思います。家事は、気づいた人がやればいいんじゃないんですか。

【2010.02.14追記】ひさびさに自分の書いた文章を読み返しました。ちょっと誤読していたようです。「夫が下洗いしてからセットする」というのは、要するにその友人は夫に下洗いをさせているということですね。自分でする必要がないから悩む必要もないわけで、言及することには十分な意味があります。
 但し、このこと自体に何の疑問も抱いていないところに「この人特有の『家事は何としても夫にさせなければならない』というイデオロギーがぽろっと現れていると思います」。
 さほど激烈な批判をしているわけではありませんので、本記事は伏字にはしません。
posted by 為栗 裕雅 at 14:26| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

夫の裏切りを訴える妻の「もっと重大な裏切り」

 インフォシークの占いのページをたまたま見ていたら、結婚に関するお悩み相談室みたいなコーナーがありました。回答者は島田律子氏。プロフィールを見ると「生年月日:1968年7月31日」と「生年」まではっきり明記してあって好感が持てます。このことについては、いずれ別の機会に絶賛したいと思います。今回は別の話を。

 「33歳、結婚1年半の人妻」からの相談で、こういう内容のものがありました。(要約:為栗裕雅)
 結婚前に4年ほど米国留学していた夫。現地で3年ほど同棲していた彼女がいたが、その後その彼女とは別れた。私は同棲していた彼女の存在を知っていたので、結婚の際、彼に「彼女は結婚すると知ってるの」と尋ねた。彼は「知っている」と答え、「前の彼女も君に会ってみたいと言ってる」と聞かされた。
 私はあまり気にも留めず今まできたが、最近何気なく彼のメールを見てみたら、その彼女からのメールがあった。他愛もないメールで、アメリカにいる時の共通の友人が結婚したとかのメールだったが、その内容から察すると、彼女は彼が結婚したことを知らない模様。
 私は「言ってないのに『言った』と嘘をついたこと」に不愉快になり、いかにも彼がメールしたかのように結婚したことを彼女に返信した。彼女は「えー、知らなかった。今度日本に行った時は、是非奥さんに挨拶したい」と返信してきた。私からすれば、浮気どうのこうのよりも、なんで別れた女から挨拶されなければならないのか、また、結婚したことを言っていないのに、結婚したことを言ったと言った彼の心理、この二人の心理が理解できない。彼は前彼女との恋愛気分に浸っているのだろうか。
(http://girls.www.infoseek.co.jp/love/shimada/advise/50.html)

 これに対して島田氏は、こういう回答をしています。怒りはもっともだが、彼のほうも元カノとの連絡にそのうち飽きるだろう。浮気まで行っていない以上、下手に波風立てないようにそっとしておきなさい、と。まあそれがいちばん賢明だろうと私も思います。

 しかし、この件の本質はここにあるのではありません。
 上の枠内、私がいちばん引っかかった箇所を抜き出します。
最近何気なく彼のメールを見てみたら
(中略)
不愉快になり、いかにも彼がメールしたかのように結婚したことを彼女に返信した。

 この妻、重大な裏切り行為をしていませんか。彼のメールをなぜ見る機会があったのでしょうか。しかも、メールを盗み読みするだけでなく、彼の名を騙って偽りのメールまで送信しています。
 島田君、まずはこういうところを指摘しなきゃダメじゃないか。

 質問に私(男です)の立場からコメントしておくと、まずはこの「妻の裏切り」という点を指摘します。次に、相手の女性はあくまで「彼」に対してメールしてるわけで、妻に直接言ってるわけではない。従って、メールを読んで妻に挨拶させるか否かは、メールボックスの持ち主である夫が決めることです。そして、たぶん元カノを現妻に会わせたりはしないでしょう。いかに男の思考が単純でも、そのくらいは理解していますよ。私だって妻の元カレになんか会いたくはないですし。

 結論。本件は「妻がすべてにおいて悪い」。
 ほなさいなら。
posted by 為栗 裕雅 at 14:36| 東京 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年12月09日

新幹線禁煙車、隣が喫煙車で煙害が基準の3倍

 9日の読売新聞サイトにこんな記事が掲載されていました。
 JRの新幹線や特急の禁煙車でも、隣接の喫煙車が満席なら、〈煙害〉を免れないことが〜調査で分かった。
 東海道・山陽新幹線の禁煙車では、煙の粉じん濃度の平均値が、厚生労働省の「喫煙室内の空気環境に関する基準」を超え、最大で約3倍になる時もあった。乗降時など扉が長く開いている時や車掌らの出入りで禁煙車にも煙が流入するらしい。中田さんは「列車などの移動空間の禁煙化は、世界では常識。全面禁煙にすべきだ」と注文している。
 東海道と山陽の両区間にまたがって走る新幹線はすべて16両編成で、3・4・10・15・16号車の計5両が喫煙車。
(中略)
 昨年施行された「健康増進法」は、多数の人が利用する施設の管理者に受動喫煙を防止する努力を義務づけている。中田さんは「受動喫煙が原因の死者は年間3万9000〜1万9000人と推計される〜」としている。
(出典はhttp://www.yomiuri.co.jp/main/news/20041209i506.htm)

 列車の禁煙問題については、10月にこんな記事を書いております。
 先週末に法事で京都に行きまして、行きでひさしぶりに新幹線に乗ったのですが、東海道新幹線ってまだまだ野蛮な状態が続いているんですよね。びっくりしました。
 ひかり号の自由席は16両編成のうち1〜5号車の5両しかないんですが、その貴重な5両のうち2両が喫煙車で、しかも上の記事のとおり喫煙車は3・4号車。つまり禁煙車が喫煙車を間に挟んだ状態ですから、禁煙車の煙害たるやすさまじいものがありました。席を探して5号車を歩くと、隣の車両に近づくにつれてタバコがにおってくるんです。デッキとは自動ドアで仕切られているのにも関わらず。そして4号車に入った途端、松田優作じゃありませんが「何じゃこりゃ〜」と思いましたよ。
 航空機は確か全面禁煙だったと思いますので、「タバコを吸いながら移動できる」というのは空路と差別化するセールスポイントとしてはアリかもしれません。しかし、今のままでは逆にタバコ嫌いの客を空路に奪われることになるんじゃないでしょうか。既に私の知人で週1で大阪へ行ってる人は、完全に空路しか使っていません。
 やはりここは、@喫煙車の減車、A場所を一番端の車両にまとめる、この2点が望まれると思います。頼むよ、JRちゃん。

【2004.12.13 05:02追記】フランス国鉄は、12日からTGVを全面禁煙にするそうです。裏山に椎茸。
posted by 為栗 裕雅 at 16:12| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月01日

役員が会社に住むのは「経営努力」か

 日本経済新聞朝刊の最終面に掲載されている「私の履歴書」は、もう何年続いているかわからない名門連載で、ここに自伝を載せるのがビジネスマンにとっての憧れになっていたりします。
 4月は、バドミントンラケット製造会社「■■■■■」の会長、■■ ■氏でした。ラケットメーカーとして名高い■■■■■が、新潟県の町工場からスタートし、しかもその社名が創始者の名字から採ったものであるとは、この連載を読むまで知りませんでした。

 さて、連載も終わりに近付いた4月28日(木)の記事を読んで、私はあきれ返りました。
(前略)九四年、東京証券取引所第二部に株式を上場した。
 その五、六年前、上場準備を進めていたころ、いま思い出しても腹が立つことがあった。
 当時湯島の本店ビルには、私の弟で常務の■■(現社長)が、最上階の七階に家族と一緒に住んでいた。
 ■■は最初、東京の靴下の問屋に就職し、一九六三年(昭和三十八年)、二十五歳のとき■■■■■に入った。(中略)以来、彼は東京に常駐して営業一筋に歩み、八九年に営業本部長に就いた。湯島の本店ビルに空きスぺースがあり、「職住一体」の方が通勤時間がいらず効率的なので、そこで寝起きしていた。
 上場準備のため主幹事証券会社の山一証券から、担当者がやって来たときだ。■■が本店に住んでいることに驚き、こう言った。「役員ともあろう人が本店を家代わりに使っているなんて、こんな品のない、程度の低いことはありませんよ。これで上場しようって言うんですか」
 この一言に、私は怒り心頭に発した。役員が会社に住んでいて何が悪いのか。どうして、それで上場の資格がなくなるのか。空きスペースがもったいないから有効に使っているのではないか。極めて合理的ではないか。(中略)万一に備えて少しの無駄も許さないのは当たり前ではないか。それを品がない、程度が低いとは何事だ。
 すぐに山一証券を主幹事証券から外した。山一証券は大騒ぎになり、幹部が何人も私をなだめにやって来たが、もう遅い。まったく取り合わず、別の証券会社を主幹事証券にした。(以下略)
(日本経済新聞朝刊、2005.04.28「私の履歴書」より。ゴチックは為栗による)

 私の前職の社長は、新築したばかりの本社ビルに住んでいました。私が前職を辞めた理由の一つは、サービス労働があまりに多かったので嫌気がさしたことです。給与体系に残業手当なるものが存在しないような、労働基準法違反の常習犯の会社でしたから、住宅手当の類など、もちろん我々シモジモの社員にあるはずもありません。一方で、社長は家賃を払わずに会社に住んでいる。どう見ても会社を私物化しているようにしか思えませんでした。
 会社組織がそれなりに大きくなっても、経営者の意識が個人商店と変わらないと、こういう公私混同が起こります。もちろん経営者は倒産リスクを一身に背負っているのでしょうが、それはそれ、これはこれ。こうした公私混同は、経営者としては品のないことでしょう。会社に家賃を払っていたなら一応よしとしますが、しかしそれにしても「李下に冠を結ばず」と言いますからね。

 そういう姿を見ている私には、■氏の「経営努力にケチをつけられた」という趣旨の言辞は、途方もない暴言のようにしか読めませんでした。どう読んでも、山一証券の担当者の「これで上場しようって言うんですか」という指摘が正しく思えますし、正論を吐いて主幹事証券の座を追われた今はなき山一が非常に気の毒に感じました。
 上場企業であるということは、前記のような「個人商店」のケジメのなさを排しているということでもあるはず。山一の担当者は、そこを指摘したんだと思います。仮にも上場しようという企業の役員が、会社に住んでいたらいかんのです(「寝起きしていた」と■氏は書いていますが、家族と暮らしていたんですから住居として使っていたんでしょう)。そういう忠告を聞く耳を持たない、恐るべきワンマン企業であったということですね、■■■■■という会社は。それがわずか10年前の話。

 しかも、こういうことを得意げに滔々と話す■氏の神経を疑います。失礼なことを言ったからバッサリ切ってやった、と得意になる■氏の姿は、「公私混同を指摘され、ムカついてキレた」以外の何物でもありません。
 こんなことを書くぐらいなら、北朝鮮による拉致被害者、横田めぐみさんの話にでも触れたらどうなんでしょうか。お宅の製品(バドミントンラケット)を持ったまま北鮮に連れて行かれたんでしょ。「一日も早い解決を祈る」ぐらいのことを言っていれば、「私の履歴書」ですから社会的な影響力もあるでしょうに。

 この連載で、■■■■■は「未来の顧客」を一人失いました(私のことです)。遠い将来、自分の子どもがテニスなりバドなり始めたとしても、■■■■■のラケットは買えないと思います。ワンマン経営者の放言は広報部門でも抑えきれないのでしょうが、ご愁傷様ですね。
 ほなさいなら。

【2010.05.23追記】ひさびさに自分の書いた文章を読み返しました。書いている内容を変更すべきとは思いませんが、実名を挙げての批判は激烈であったと思います。こっそり抹消してもよいのですが、やはり自分の書いたことには責任がある、と思います。検討の結果、実名およびそれに類する部分を伏字に変えさせていただきました。ご了承下さい。
posted by 為栗 裕雅 at 08:32| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月09日

ワールドカップを嗤う

 また物議をかもしそうなタイトルを掲げました。

日本、北朝鮮下し3大会連続W杯出場
 【バンコク8日共同】サッカーのワールドカップ(W杯)アジア最終予選B組は8日、2試合を行い、当地のスパチャラサイ国立競技場での北朝鮮―日本は柳沢(メッシーナ)の先制点などで日本が2―0で勝ち、3大会連続のW杯出場を決めた。
(http://sports.nikkei.co.jp/soccer/jpn/full/index.cfm)

 目覚ましとして朝6時55分からラジオが鳴るようにしてあります。つけている局がFMナックファイブ(さいたま市)ですから、時間帯(=誰がDJであるか)から考えて今朝どんな番組内容だったかは容易に想像できると思います。私がテレビを持っていないのと、夕べ疲労感が強くて10時過ぎに床に入ったのとで、日本のW杯出場を知ったのは、朝のラジオが初めてでした。
 W杯に関しては、それで十分だと私は思っています。もともと「体育もの」の動向に関心が薄いことに加えて、「世の中の大勢」に無批判に流されていくことの不快さを強く感じるからです。今回は特に、昨日ドーナツ屋で隣の席の女子高生(まともな家庭の子女らしい)がW杯の話題で盛り上がっていたことと、JRの尼崎事故について一連の「JRバッシング報道」を思い出したことが、直前の印象としてあげられます。

 今回のタイトル「ワールドカップを嗤う」は、信濃毎日新聞の主筆だった桐生悠々(1873〜1941)が信毎の社説として1933(昭和8)年に書いた有名な一文「関東防空大演習を嗤う」から採りました。桐生はこの社説で軍部の怒りを買い、信毎主筆の地位を追われることになります。リンク先を一読してみて下さい。私にはどう読んでも桐生の文がおかしいとは思えないのですが、軍部が世を牛耳っていた時代は、こういう批判すら封殺される時代でした。その結果が、大空襲と原爆投下と敗戦であったわけです。私は、昨夜から今日にかけてのW杯も、尼崎事故でのJRバッシングにも、その他もろもろにも、似た傾向を感じて恐怖感にかられるのです。

 信濃毎日といえば、私はかつて、ここの入社試験を受けたことがあります。
 唐突に話が「あさめぐ」(あさひ銀行めぐり)に飛びますが、1998年6月20日、私は長野支店と松本支店の2店を制覇しました。実はこれは信毎の入社試験で長野に行ったついででした。
 試験科目は英語・一般教養・作文でしたが、睡眠不足のせいで筆記試験はボロボロでした。作文は一応私が得意だと思っている分野で、1000字・制限時間70分のところ、いちおう50分程度で書き上げています。テーマが指定され、それをもとに題を自分で決めて文章を書く方式。このとき書いた作文は、大学の就職課勤務の友人にチェックしてもらうべく、東京に帰ってすぐ答案作成時のメモをもとに復元しました。それが手許に残っていますので、ついでにご披露しましょう。

信濃毎日新聞社 1999年4月入社試験(1998年6月20日実施)
テーマ「共生」または「共に生きる」
題「共生」

 世に「共生」という。その多くは、外国人など、自分とは異なったカルチャーを持つ人々と一緒に社会生活を送るような「異質のものがモザイクのように“共存”して生きていく」という、どちらかといえば肯定的なニュアンスで使われているようである。しかし、共生とはそんなに良いものであろうか。
 昨日散髪に行って、床屋のマスターと作業台の上でしゃべっていた。私は、今巷で盛り上がっているワールドカップに関心がない。と言うより、「体育もの」の試合の動向に魅力を感じないのである。というわけで私は「後でスポーツニュースを見れば、何時間も試合中継に釘付けになることもないじゃないですか」と自説を開陳した。スポーツ観戦の好きな、つまりその意味では「普通の人」であるマスターは、ひどく呆れ返っていた。行きつけの床屋で、私がへそ曲がりな人間であるのをよく知っているマスターが相手であればこそ、私はこういうことを平気で言うし、また「為栗さんってへそ曲がりですね」と言われても気にせず笑い飛ばせる。お互いに相手を知っているからこそ、二人は喧嘩せずにやっていけるのである。もしこういうことを、全く初対面の人に言ったらどういうことになるか。恐らく「変な奴」として、相手にされなくなるのがオチであろう。
 このように、考え方の異なる他人とこの社会で波風を立てずに暮らしていくためには、「理解」と「我慢」が必要である。異質な人が自分とはどのような点で異質なのかを知り、かつ自分の感性に合わない部分は我慢するということが求められるのである。その異質さの度合いが、軽微なうちはよいが、ずれが大きくなってくると、異質なものを理解することも我慢することも困難になってくる。ストレスの発生である。
 「共生」という言葉をもてはやすこの社会は、理解と我慢とを「強制」する社会でもある。現代人は、否応なしに「社会的な生活」をさせられている。そして、社会に適応するために「させられて」いることが、何と多いことだろうか。社会に適応しようとしすぎた結果、ノイローゼになる人が出てくるのもうなずける。私は現在のところ、辛うじてノイローゼにはならずに済んでいるが、これも今後どうなるかわかったものではない。それとも、社会に適応することなど考えず、いっそのことキレてしまったほうが、却って幸せなのかしら。

 ちょうどこの頃にも、ワールドカップで盛り上がっていたんですね。この年のフランス大会では、チケットが足りなくて大騒ぎしていました。
 自分で書いときながら言うのもなんですが、よくこんな根暗な文を書いたものです。「根暗」ではあっても、内容に誤りを含むとは今でも思っていません(末梢的な部分で多少の無理があるのは認めます)。しかし、内容の是非はともかくとして、間違いなく入社試験担当者が想定していた作文ではなかったでしょう。ところが、私がこの時期に書いた入社試験の作文は、おしなべてこんな調子です。就職活動がうまくいかないわけです。ただでさえ氷河期、しかも新卒じゃないのに。

 この文の中に、私の「体育もの」に対する位置づけもはっきり出ております。「後でスポーツニュースを見れば、何時間も試合中継に釘付けになることもない」。昨夜から今朝にかけての私は、まさにそれでした。
 信毎の社説「関東防空大演習を嗤う」をもじった「ワールドカップを嗤う」というタイトル、その内容とかつて信毎の入社試験で書いた作文。妙に一致しているなあ、というのが今日のエントリの個人的動機でした。

 最後に。「日本が北鮮を下した」ことだけは、素直に喜んでいます。念のため。

 ほなさいなら。
posted by 為栗 裕雅 at 10:55| 東京 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月19日

悲運な「父の日」の朝に思う

 今日は「父の日」なんだそうですね。と男の私から言われてしまうくらい、父の日というのはマイナーな「××の日」です。この手の記念日は色々と乱立していますから(たとえば、7月10日「納豆の日」など)、埋もれてしまっているのでしょう。私の場合は、日常生活の中で父親を想起する機会が少ないせいもありますし、自分が「父」になることは多分ないだろうと思っているせいもあります。
 それにしては「母の日」ってメジャーだよなあ…。

 さて、枕元で毎朝目覚まし代わりにラジオを流している話を以前しました。
 この局では、日曜日の朝は7時半まで中年女性DJによる生番組。その後、昼まで録音番組が30〜60分単位で続きます。その一番初っ端は、某女性シンガーソングライター(名前を聞けば誰でも知ってる人だと思います)の番組です。
 この女性が今朝番組の冒頭でしゃべったことが、引っかかってしょうがありません。いわく、彼女は父の日に食器をプレゼントしていて、それは母の日の贈り物とお揃いなんだそうです。要するに、買ってきた夫婦茶碗をバラして母の日と父の日に分けてプレゼントするようなイメージですね。
 そこまでは良い。今年の父の日のプレゼント、彼女は「面倒くさいので、母の日に一緒に送ってしまった」んだそうです。

 脳が半分眠っていて、その状態でいきなり耳に飛び込んできたからかもしれませんが、私はなぜかここが非常に引っかかりました。母の日にはちゃんと贈り物をするのに、父の日が面倒くさいってどういうこと?
 理屈で考えれば、別に不自然なところはありません。この女性が父親を大事にしていないわけでもないと思います。にもかかわらず、なぜかこの部分には妙に反発を覚えました。

 私の従兄弟は4歳年上でしたが、おととし亡くなりました。母親の実家(というより伯母の家)に行くと、2世帯住宅の上の階から4人の娘がドタドタと駆け下りて歓迎してくれます。父親と同じ年恰好の男性で、しかも私はこの子たちの相手を面倒がらずにやってますから、4人の遺児たちはよくなついてくれているようです。
 父の日の「過ごし方」は父親がいないなりに構築しているでしょうが、この子たちは、父の日に父親に贈り物をしたくてもできません。この子らがこの番組を聴いたら、どう思うだろうか。少なくとも私は、4人の遺児たちにここの部分は聴かせられないと感じました。

 「父の日」のいわれを調べてみると、次のようにありました。やはりマイナーな運命を背負っているようです。
6月の第3日曜日。恥ずかしがらず感謝の気持ちを伝えましょう。
<父の日のいわれ>
母の日があって父の日がないのはおかしいということで、アメリカの一夫人が男手一つで育ててくれたお父さんに感謝するパーティーを開いたのが始まりです。その後1934年に父の日委員会が結成され、母の日にならって6月の第3日曜を父の日に制定しました。
日本で一般的な行事になったのは昭和28年(1953年)から。
(http://www.echizenya.co.jp/mini/colum/father.htm)

 上記出典は「越前屋」という大阪・豊中の仏壇屋さんのサイトです。「暮らしのミニ知識」というページがこまごまと参考になります。そういえば明後日は夏至らしいですよ。

 父の日、実家に電話1本入れるわけでもない私が、何をエラそうにほざいているのですかね。こういうのを「厚顔の美少年」というわけです。
 ほなさいなら。
posted by 為栗 裕雅 at 09:00| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月22日

年を取るということは

 年を取るということは
 屈辱に耐える力が失われてくるということなのだなあ。
 「柔軟性の喪失」と言い換えてもいいが。

 年を取るということは
 明るい未来が失われてくるということなのだなあ。
 「大人になる」と言い換えてもいいが。

 年を取るということは
 肉体の張りが失われてくるということなのだなあ。
 「先祖返り」と言い換えてもいいが。

 人間はいつか必ず死ぬというのなら
 面倒だからさっさと迎えに来てくれよ。
 そうでないなら
 年は取りたくないなあ。
 ほなさいなら。
posted by 為栗 裕雅 at 17:14| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月08日

青年よ大志を抱け、老人は…??

 ここで「墓石を抱け」とやったのは、ツービートの漫才だったでしょうか。今の私にはそういうブラックなジョークを飛ばす心の余裕はありません。
 この夏は、これまでやってきて停滞してた仕事と、新しく始めた仕事とが、同時に動き始めました。8月は、これまでのスケジュール帳の白さが嘘のようです。というわけで、しばらく帰省もできそうにないので、比較的余裕のあったこの土日で強引に帰省してしまいました。そりゃあ「老人は墓石を抱け」なんてブラックジョーク、笑って流すことなどできなくなりますよ。

 閑話休題。
 北千住で東武伊勢崎線から常磐快速に乗り換えたときのこと。
 車内はほとんど満席で、わずかにシルバーシートにいくつかの空席がありました。一般座席を見ると、何しろ常磐線ですから年寄りばかりが乗っています。

 電車(常磐線に限らず)を利用する70歳以上の老人の皆さんにお願いしたいことがあります。
 あなた方は有資格者なんですから、シルバーシートに堂々と座って下さい。

 いちおう若い世代に属するつもりの私にとって、空いててもシルバーシートに座るのは気がとがめるんですね。
 70歳を超えたジジとババには、進んでシルバーシートに座ってもらいたいと思います。そうでないと、一般座席にしか座れない私のような人種が困ってしまうのです。

 肉体の衰えを感じ始める30代後半の為栗でした。ほなさいなら。
posted by 為栗 裕雅 at 00:16| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月20日

マーガレット(仮名)を思い出す秋の夜長

 こんばんにゃ。
 つい最近まで、ある仕事の作業と会合が連日続いていました。仕事はまだ終わってはいないのですが、いちおう一区切りになりまして、すっかり脱力しております。
 その仕事のプロデューサーは、「貴乃花親方」みたいな人。つまり、一体どうすりゃアンタは満足するんだと思うほどの文句言いで、会合で顔を合わせた後はドッと疲れが出ます。某日なんか、会合の予定を当日メールで照会したのを「手抜きだ」として、さんざんシボられてしまいました。メールなんかいつ見るかわからん、電話で照会しろと言った筈だ、と。確かに正論ですが、それを夕方の電話で20分、さらに直接会ってから20分、あわせて40分も責められるのは、正直いかがなものかと。同じ話題の繰り返しと過去の話題の蒸し返しが多く、こういうのを「老人の繰言」というわけです。老人と呼ぶにはまだ早い人なのですが。 

 気持ちがどんどんマイナスの方向に向かっていく中で、私はふと、以前勤めていた塾で教えていた女子生徒を思い出していました。退職当時小6だったこの女子生徒に、私はずいぶん厳しく接していました。態度の悪い時に机を叩いて泣かせたり、おかしな言葉遣いをいちいち注意して使わないようにさせたり。とにかく日本的なしつけのまるでできていない子で、目上の大人に向かって「アンタ、××でしょ」とか平気で言ったりしていた子だったので、そのままでは将来が心配だったからです。
 いまの私とプロデューサーとの関係に少し似ているかしら。彼女(仮にマーガレットと呼んでおこう)が当時私にどんな感情を抱いていたか、少しわかったような気がします。

 閑話休題。
 ちょっと前にこういう新聞記事が出ました。日付と地名を伏せて転載します。

中学生姉妹、夜明けのドライブで当て逃げ容疑
 無免許で乗用車を運転し当て逃げしたとして、■■県警■■署は■■県■■市の中学1年の女子生徒(13)を道交法違反(無免許運転、当て逃げ)の疑いで補導し、■■児童相談所に■日通告した。後ろの座席に乗っていた中学3年の姉(14)も同法違反(無免許運転幇助(ほうじょ))の疑いで事情を聴いている。
 調べでは、中1の女子生徒は■日午前7時半ごろ、市内の路上で父親の乗用車を無免許運転。駐車中の車に衝突し、そのまま逃げた疑い。
 姉が「ドライブに行こう」と誘い、同日午前0時過ぎに2人で自宅を出発、■■・■■や■■市中心街などをドライブしたという。
 調べに対し、妹は「以前にも何回か運転したことがある」と話しているという。事故を起こした現場は姉妹の通う中学校の近くで、登校中の生徒の目撃証言から発覚した。
(朝日)

無免許中1女子、姉乗せ当て逃げ 父の車を持ち出す
 無免許で父親の車を持ち出してドライブし、当て逃げをしたとして、■■県警■■署が■■市内の市立中学一年の女子生徒(13)を道路交通法違反の非行事実で児童相談所に通告したことが■日、分かった。女子生徒は「以前から父親の車を運転していた」と話しているという。
 同署は後部座席に乗っていた同じ中学三年の姉(14)からも無免許運転ほう助の疑いで事情を聴く。
 調べでは、女子生徒は■日午前七時半ごろ、■■市▲▲の路上に駐車中の無職男性(23)の車に衝突、逃走した。登校中の同じ中学の生徒が目撃し、中学の教諭が同署に通報した。
 女子生徒らは、別居中の同市内の父親宅で車の鍵を見つけ、■日午前零時半ごろから同市内や■■市方面をドライブした。「途中に何度か民家の壁などにぶつかった」と話しているという。
(日経)


 この姉妹は、マーガレットとその妹ではないだろうか。個人情報はほとんど書かれていませんが、私の直感ではほぼ間違いないと思います。
 記事に出ている■■市▲▲は山の中腹にある団地で、この団地には小中学校とも一つずつあります。この姉妹は、私が退職した時に▲▲小学校の6年と4年でしたから、そのまま▲▲中学校に上がっているはずですし、年齢的にも年数の経過と一致しています。それに…。
 こういう予断は持ってはいけないのでしょうが、この姉妹には、こういう事件を起こしたと聞いて、すぐにピンと来る匂いというか雰囲気がありました。地元には同様に思った人が多いのではないでしょうか。なにしろこの姉妹はある意味「有名人」でしたから。いい意味ではなく。

 但し私の場合は、そういうレッテルを貼って切り捨てようというのではなくて、そういう雰囲気を感じていたからこそ、しがない一人の塾講師として心配していたのです。だから、退職して3年も経つのに未だに思い出したりしていたわけです。

 詳しい事情を書けないので歯がゆいのですが、この姉妹は「日本的」なしつけが欠落した子たちでした。それゆえに私は、勉強面だけでなく生活面で相当に手をかけていました。小3〜4当時のマーガレット(姉)は、目上の大人に向かって「アンタ、××でしょ」とか平気で言っていた子です。それを、おかしな言葉遣いをする度にいちいち注意して、使わないようにさせました。態度の悪い時、机を叩いて泣かせたこともありますし(念のため:1回優しく注意して、指示に従わなかったからです)、とにかくしつけの面では相当厳しく接しましたから、私に対して良い印象は持っていないと思います(あるいは嫌な思い出はさっさと忘れているかもしれません)。

 ただ、日本的なしつけは欠落していましたが、この子たちは、困っている人を自然に助けてあげるような心の優しさも持ち合わせていました。授業で教科書を忘れた生徒にサッと見せてあげるとか。忘れ物や遅刻をした生徒は厳しく叱られるという、私の授業に特有の事情だったかもしれませんが。
 姉妹のそういう美点も見て知っている私としては、この子たちが成長して、こういう事件を起こすほど世間の常識からズレてしまったことに、暗然とした思いでいます。

 新聞記事を読んで、私にとって新たに判明した事実。両親が別居していたということ。私が勤務していた当時は、家庭に電話すると(塾を欠席した時は電話連絡をすることになっていました)母親が出たし、授業が終わると父親が迎えに来ていましたから、数年後に夫婦別居というのは想像していませんでした。
 塾も辞めちゃってたんだろうなあ。まともに塾で勉強していたら、中学生が深夜のドライブなんてできないですよ。眠たくて。

 行動が常識はずれだったこの姉妹に対して、世間の視線はもともと冷たく、唯一防波堤となるはずの家庭は、両親の別居で北風が吹きすさんでいる。淋しかったんだろうと思います。やってしまった行為はきちんと始末しないといけませんが、情状酌量の余地はある子たちだろうと思っています。彼女たちが常識はずれだったのは、常識を身につける機会に恵まれなかったからだと思います。それに、泥棒をするような子たちではない筈ですし(乗り回したのは父親の車ということです)。

 大甘ですかね。というか、補導されたのがマーガレット姉妹と決まったわけではないんですが。
 ほなさいなら。
posted by 為栗 裕雅 at 01:32| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月21日

学校が「楽しい」教師は信用できない

 ハードディスクの中を整理していたら、ずいぶん前に書いてそのままになっていた記事が出てきました。内容としてはそのまま使えるものですので、年末の在庫整理の一環(!?)としてUPしておきたいと思います。

2005.04.01
 例によって僻み根性かもしれないが一言書いておこう。
 31歳の女性の作家で、中学の教員と2足のわらじを履いている人がいる。この人が先日(日付忘却)、読売新聞のインタビューで「学校が楽しくて仕方がない」とコメントしていた。そういえば、私がずいぶん前に田舎の公立学校教員の採用試験を受けたときにも、集団面接で「あなたの学校生活とは」という質問に対して「楽しかった」と即答した女性の受験者がいた(槍玉に挙げたのがたまたま2人とも女だが、男であっても同じことだ)。
 私は思うのだが、学校生活が楽しい/楽しかった人に、学校生活というものの何たるかがわかっているのだろうか。
 学校生活。それは、一定の学習内容や社会的規範を教え込むために、家庭生活から公的に強制隔離されて集団で行われるものである。性質上どうしても画一的になり、それはある種の生徒にとっては極楽浄土だろうが、別の種類の生徒にとっては苦痛極まりない地獄となる。そして「学校生活」というものについて、どちらがより本質的な部分を見極めているかは、言うまでもなく後者の恵まれない立場の者である。このことは「果物屋で売ってるバナナ」の寓話で理解される。
  A「僕の幼少期は貧しくてね、バナナなんて食べたこともなかった」
  B「バカだなあ、バナナぐらい、果物屋に行けば売ってるのに」
 貧乏人にはバナナのような安い果物ですら買えないのだ、ということが金持ちには理解できない。大体この世は、金持ちほど金を使わずに済むようにできているのだ。同様に、学校生活が「楽しかった」人に、学校生活が苦痛な人の気持ちは理解できないのである。

 もうおわかりだろうが、私は学校生活が苦痛で苦痛でたまらなかったクチである。といって、尾崎豊のような軟弱な思想にも共感できない。私は、今も盛んに歌われるらしい「卒業」という歌が最も象徴的に嫌いである。夜に学校へ行って窓ガラスを壊して回ることにどれほどの生産的な意味があるのか。反抗のための反抗でしかないではないか。こういう歌に共感できるほどナイーブなら、私はまだ救われていただろう。
posted by 為栗 裕雅 at 09:32| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月23日

私の嫌いな女

 こういう女は嫌いだ。

・タバコを吸う女。
・サングラスをかけている女。
・「女の子」と自称する女。

 基本的に私は、女という生物はズルい卑怯なものだと認識しており、従って大嫌いです。それなのに、性欲に関する部分は情けないほどにヘテロでして、まったく恨めしい限り。
 そういう私からすると「こういうタイプの女が嫌い」ということを列挙するのは全くバカバカしいことなのですが、最近の私の奉公先に、この3つを全部兼ね備えた女性がいます。

 ま、私は大人ですから、かの女性がそういう性質を持っているからといって別にそれを理由に拒絶したりはしません。しかし、向こうさんはそこまで修養ができているわけではないのですね。まだ十代だそうなので。
 同じ部屋にいると、向こうさんから「ソリの合わないオーラ」が強烈に発散されているのをビンビンに感じます。私からも無意識のうちに、同じオーラが発散されているのかもしれません。

 ソリが合わないだけなら仕方ないんです。互いに合わせる努力をすれば、たいていの社会的な人間関係は破綻せずに済みます。しかし、そういう努力をする能力が先天的に欠落している人が、この世には実に多いんですね。
 というわけで、ソリが合わないことを理由に朝の挨拶も満足にできないような人は、私の周辺から消えて欲しいと強く希望します。

 愚痴でした。ほなさいなら。
posted by 為栗 裕雅 at 00:42| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月30日

「足が地に着いた生活」の消滅を象徴する「のだめカンタービレ」

 近所の駅近くを歩いていて、古本屋さんのコミック買い入れ掲示を見つけました。『のだめカンタービレ』100円と書いてあります。古本屋が積極的に買い入れるくらい、このマンガが流行ってるということですね。「のだめ」こと野田恵という音大の女子学生がヒロインの物語ということですが、私はまだ読んだことがありません。しかし以前から存在だけは知っておりました。

 この「のだめ」という言葉を使ったコミックが、世の中に何の抵抗感もなく広まっているのは、日本の社会が浮き足立っていることを如実に物語っているんじゃないかという気がします。
 なぜか。「のだめ」と聞いて、私はどうしても「野溜め」という言葉を連想してしまって、茶色いイメージが抜けないからです。こういうことを言うのは私だけなんでしょうか。生活の中から農作業がすっかり消えてしまって、野溜め・肥溜めというもののイメージが沸かない人が大多数になってしまったせいかもしれません。

 日本の農業がとっくに衰退してしまったこと。つまり、土をいじり大地をしっかり踏みしめて生きていく、そんな生活が日本人からすっかり失われてしまったということ。「のだめ」の流行は、そうしたことの証拠のような気がしてなりません。バブリーな「生扉事件」は、その延長線上にあると思います。

 ほなさいなら。
posted by 為栗 裕雅 at 20:50| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月23日

南房総市民よ、怒りを炸裂させよ

 今朝、早起きする必要があって、ラジオのタイマーを04時50分に合わせました。放送局は、さいたま市のFM局、FMナックファイブです。
 リスナーからのメールを紹介していました。どうもこの日のテーマは方言とか地方語とかであったようです。
 その中に、世に知れたらただでは済まないだろうと思うものがありました。内容はこうです。

「千葉県では、嘘つきの人のことを『ちくらっぽ』と言う」

 これは明らかに差別用語です。

 まず、「ちくら」というのは、千葉県南端の町・千倉(現南房総市)のことではないでしょうか。
 次に、「〜っぽ」という接尾辞は主に蔑称につくようです。たとえば、被差別部落を指す言葉として「チョーリッポ」というのがありますが、江戸時代の被差別部落の職業をあらわす「長吏」という語に「〜っぽ」をつけたものです。
 そして、語の意味が「嘘つき」。差別用語には、他にも怖い・かっぱらいなど複数のバージョンがありますが、いずれにしてもマイナスのレッテル貼りをするところは共通しています。

 こういうメールを採用して番組で読んでしまう制作者のセンスを疑います。
 見損なったぜ、FMナックファイブ。好きな放送局だっただけに非常に残念です。
posted by 為栗 裕雅 at 12:13| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月01日

村上世彰君、阪神の次は「京王電鉄」だ

【おことわり】この記事は6月1日夜に書かれたものです。

 阪急ホールディングスによる阪神電鉄の買収ですが、そろそろ手打ちになるのではないでしょうか。村上ファンド代表・村上世彰君としては、阪急による買い値に不満があるでしょうが、一応「1株930円」という条件でも500億円(?)ぐらいの利益になるそうですし、戦後初の大手民鉄再編を導いたという社会的な意義もあったと思います。阪急もあれ以上のカネは出せないでしょうから。

 さて、プロ野球球団を通じて愛されている「阪神」という鉄道会社を強引に買収しようとして、村上ファンドは大きく反発されました。本来、M&Aは経済行為であって、非難されることではありませんが、まだ日本では抵抗感が強いようです。しかし、ニッポン放送、阪神電鉄と続く大きな買い占め事件のおかげで、そのうち感覚が麻痺してくるかもしれません。今回と同規模の乗っ取りが次に起こっても、世論はあまり騒がないと思います。
 もちろん、会社の乗っ取りは、当事者にとっては一大事です。全力で防衛しなければ、経営者は自己の保身すらままなりません。その意味で、株を買い占めるというのは、ある会社の体質を変えたいと思う時には大変な効力を発揮します。

 というわけで、唐突ですが村上世彰君に提案があります。
 阪神が終わったら、次は京王電鉄だ。

 京王百貨店で阪神優勝セールをやるからではありません。そんなことはどうでも良い。
 村上君、京王電鉄が小田急電鉄に買収されるよう、骨を折ってもらえないだろうか。

 子会社でなく「完全吸収合併」ならいっそう望ましいと思います。京王線は「小田急電鉄八王子線」、井の頭線は「小田急電鉄吉祥寺線」になれば良い。
 こういう提案をするのは、京王の経営体質をガラリと変えてもらいたいからです。なぜか。この鉄道会社のここ数年の経営方針が愚劣であると思うからです【注】。鉄道は、気に入らないからといって「他社に変える」というわけにはいきません。だから愚劣な経営方針が平気でまかり通るのです。それを打ち破れるのは、もはや村上君のような錬金術師しかいないと思います。
 小田急も京王と大差ないかもしれませんが、現状少なくとも京王よりはマシに思えます。

 井の頭線が小田急と同じ会社になれば、小田急沿線の住民にもメリットがあります。渋谷に出るのに、現状では下北沢−渋谷間が別会社で、従って120円余計にかかるわけですが、同じ会社になれば通しの料金となって、運賃は確実に安くなります。

 もっと大きく、京王・小田急・東急・京急、それに相鉄の5社が統合して、戦時中にあった「大東急」の復活。関東エリアの私鉄は、究極的にはこうあるべきでしょう。
 その足がかりとなるのは、小田急による京王の吸収だと思います。村上君、いや、村上先生、どうか一つ前向きに検討してみて下さい。

【2006.06.02_08:37追記】
 あーあ、結局村上ファンドにも司直の手が伸びたのね(嘆)。
 誰か、京王電鉄を何とかして下さいよ(泣)。

【注】
 私が愚劣だと思う点を、いくつか指摘しておきます(これが全てではありません)。
・他社に先駆けての女性専用車両の導入
・調布以東の普通列車の本数削減
・場当たり的かつ公共輸送を犠牲にした、駅の改装・商業化

 女性専用車両について、私は「対等に男性専用車両を設けられないのなら男性差別である」と考えています。その後、私が危惧したとおり、この一方的な女性優遇策は、関東地区のほとんどの線(JR・私鉄問わず)に蔓延してしまいました。先日千葉県柏市に出向いた際、東武野田線の6両編成のローカル電車にまでショッキングピンクの「女性専用車」のシールがベタベタ貼ってあるのを見て、しばし呆然としてしまいました。

 2年ほど前のダイヤ改正で、京王線の各駅停車は本数が3分の2に激減し、それ以来新宿までの所要時間が激増しました。7分間隔(20分に3本)で走っていた各駅停車が10分間隔(同2本)に減っただけのことですが、単に待ち時間が3分伸びたにとどまりません。優等列車(特急だの準特急だの)が増えて通過待ちが増えたことと、それまで急行接続のあった駅で接続しなくなったことで、「とにかく各駅停車に乗っていくのが一番速い」状態となったからです。新宿までの所要時間は、改正前と比べて10分は延びました。渋谷はもっと。というのは、明大前での井の頭線との接続も悪くなったからです。
 なお、その後微調整が相次ぎましたが、本質的な不便さは全く変わっておらず、却って微調整のおかげでせっかく覚えかけたダイヤのパターンを全部崩されてしまいました。

 「駅の改装・商業化」の最も愚劣な例は、最近ですと京王線八幡山駅が挙げられると思います。駅の施設を高架下で大幅に配置換えし、その結果明らかに欠陥を抱えた駅になりました。1か所しかない改札の真正面に、幅3mはあろうかという太い柱が数本そびえ立っています。柱がなくても広いとはいえないスペース。よくあの場所に改札を持ってきたものです。改装後、乗客の動線は明らかに大混乱しているようです。
 そして、駅施設の移動で空いたスペースに何ができるかというと「京王ストア」。勘弁して下さいな、勘定にクレジットカードも使えないようなスーパーなんか。

 上記にない細かいことも一つ指摘しておくと、「各駅停車」の列車の名称も、非常に愚劣だと思います(この点だけは小田急も同じなのですが)。かつて、駅の行先表示では「普通」、電車の車体についている列車種別表示には「 」(何も表示しない)という形で表示していたのですが、数年前「各停」という略称に統一されました。「かくてえ」という下品な響きがたまらなく嫌です。そもそもは「各駅停車」こそ普通の列車であり、急行などは「スペシャル」だったのです。いまや、新宿行きの各駅停車1本待つ間に、急行系の列車が2〜3本通過していく有様です。さらに途中駅での待ち合わせも1回は必ずあります。いい加減にしやがれ。

(2015.03.04)文面の一部語句を削除しました。
posted by 為栗 裕雅 at 21:41| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月04日

北朝鮮はやはり「ならず者国家」である

 昨夜(3日)、テレビドラマを見て涙を流してしまいました。これは、父親のXデーが近いという事実を認識して涙腺がもろくなっているせいばかりではないと思います。
 日本テレビの報道特別ドラマスペシャル「再会・横田めぐみさんの真実」。北朝鮮による拉致事件の卑劣さについては、以前佐渡へ行ったとき身にしみて感じていました(当ブログの連載で触れました)。また、かつて塾講師をしていた私は、13歳の少女がいかに幼くて弱い存在かを知っています。
 というわけで私は、連れ去られた少女が船の中で壁を叩いて助けを求めるシーンや、成人してから「赤ちゃんを産んでもお父さんお母さんに見せてあげられないのよ」と言って泣き崩れるシーンなど、涙なしに見ることができませんでした。
 その直後のトップニュースが「北朝鮮、核実験を宣言」というのは、あまりに出来過ぎの観もありますが、他局でもやはりトップニュースでしたから驚くべき偶然なのでしょう。こういう「ならず者国家」は、一刻も早く解体すべきだと思います。

 ほなさいなら。
posted by 為栗 裕雅 at 15:27| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月05日

ガスパールとリサ

 ここ1年ほど、夜なべ仕事を続けております。今日も、仕事から朝7時に帰りました。
 腹が減ったので、食い物を買いに駅前のスーパーに行ってきました。スーパーはさっき開店したばかりです。
 パン売り場を歩いていて、某製パン会社のキャンペーンが目に留まりました。「リサとガスパールのおかいものエコバッグプレゼント」。
 フランスの絵本シリーズであるこのキャラクターは、ウサギとも犬ともつかない耳の長い謎の動物が主人公。青いマフラーをした男の子「ガスパール」と、赤いマフラーをした女の子「リサ」の物語で、日本語版の第1号は2000年9月刊行と、意外に新しい作品です。私がこのキャラを知ったのは、仕事場で一緒の女の子が入れ込んでいたためですが、私もパッと見て好きなキャラの一つになりました。公式サイト

 この「リサとガスパール」という邦題。私は非常に不満です。原題は「Gaspard et Lisa」、つまり「ガスパールとリサ」なのですが(et=英語のand)、どうして日本に輸入するときに意味もなくひっくり返したんでしょうか。
 いや、「意味もなく」ではないでしょう。「男権論者」の私の嗅覚は、日本で売り出す際に、主要顧客と想定される女性の側に安直に媚びたのだ、と読み取りました。
 この邦題をつけたコピーライター(?)は、「男が先・女が後」という序列はジェンダーフリーに反する、とでも言いたいのでしょう。であるならば、キャラクターのマフラーの色にも注目したらどうなんですかね。女の子のリサが赤で、男の子のガスパールが青ですよ。色彩によるレッテル貼りそのまんまじゃないですか。こういうところを放置しておいて、タイトルだけいじるというのは、いかがなものなんですかね。だから「安直」だというんです。
 作品としては大好きなのに、こういう安直なことをやられると、素直に応援できません。非常に残念です。
posted by 為栗 裕雅 at 10:12| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月21日

ユーモアとおちゃらけ

 奉公先で毎日新聞をとっているので、ときどき目を通すことがあります。今朝、呆れた投書を見つけたのでご紹介します。

20070921-1.jpg

 私、これを読んでいて怒りを覚えたんですが。もちろん「ユーモアの通じない」長津田の駅員に、ではなく、文の筆者にです。

 まず、大前提の確認。乗り越しただけでなく、その駅で改札まで出てしまったのなら、目的地には改めて切符を買い直して【注】向かうのが普通だと思います(改札を出ていなければ勝手に戻ればいいと思いますが)。まあ、切符を買い直すのがもったいないと思う価値観もあるでしょうから、そこは問題にしません。しかし、改札を出るまで気づかないというのは相当に頓馬じゃないでしょうか。私は長津田も中山も降りたことがありますが、両駅の構造は全然違いますよ。改札出るまで気づかないものなんですかね。この頓馬ぶりに少々腹が立ちました。
 こういう人を再び改札内に入れて長津田に戻らせてあげるんですから、中山のこの駅員は親切な人だと思います。

 本題に入ります。
 この筆者、中山駅から電話した駅員が「50代ぐらいのきれいな女性」と言ったからといって、長津田駅で名乗るのに「先ほど電話があった50代のきれいな女性2人です」と言ったんだそうです。しかも、どうやら「ユーモア」のつもりらしい。
 開いた口がふさがらないとは正にこのことです。この筆者はユーモアがあるのではなく、単におちゃらけているだけに過ぎません。なぜか。ここで筆者は、JRの駅員に自分のミスの尻拭いをさせている状況だからです。乗り越したという自分のミスをフォローしてもらうんですから、平身低頭とは言わないまでも、申し訳なさそうな態度を取るのがここでは求められていたと思います。「ユーモア」なんて、使う立場じゃないってことです。
 実際、この文の筆者は、中山駅では謙虚な態度で駅員に接したのでしょう。それに対して、駅員が緊張をほぐす意味でユーモアのある応対をしたんだと思います(こちらは本当にユーモアのある応対だったと私も思います)。
 それをどう解釈したのか、いい気分で長津田駅に行って、こんなアホなことを言ったから、長津田の駅員はムッとしたんでしょう。駅員にユーモアがないんじゃなくて、筆者に常識がないんだと思います。(但し、長津田の駅員にも、接客業なんだからマイナスの感情をあまり表に出さないほうがいいわよ、とは指摘しておきます。)

 こんなこと新聞に投書されて、職場の朝礼などでややこしいことになってなければいいですけどね。

 結論。
(1)無賃送還とユーモアの2点において、中山の駅員は偉かった。
(2)長津田の駅員がムッとするのも無理はない。
(3)投書人に常識がないんだと思います。駅員にユーモアがないのではなく。

 ほなさいなら。


【注】「スイカだ」とか揚げ足取らないで下さいね。
posted by 為栗 裕雅 at 15:55| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月25日

50歳前後の女性が必ずなる「ある状態」、そのとき周囲は

 仕事場の友人で、10歳年上の女性がいます。
 人生経験が豊富で、話題が豊富。しかも頭が切れる。難しい悩み事など、論理を駆使して男の私よりも鮮やかに解決してしまいます。そのうえ、女性としては繊細なメンタリティと大胆な気配り。タバコを吸うのが欠点ですが、私にとって数少ない「尊敬できる女性」の一人です。
 以上は1年前の記述。この1年、特にここ数か月の間に、この人は劇的に変貌してしまいました。メンタリティは繊細だったのが病弱のようになり、行動からは気配りが薄れてカラ元気的な大胆さが目につくようになりました。会話は喜怒哀楽、特に怒と哀が増幅されている感じ。肉体的には疲労感が強まっているようです。タバコだけは相変わらずパカパカ吸っています。
 私のやっている仕事について、些細なことを繰り返し指摘してきます。それを評して、彼女の同居人(私の仕事上のパートナーで、彼女のツバメのような人)に「最近小うるさいんだよね」と愚痴ったところ、同居人はそれを彼女にそっくり伝えてしまい「人を粗探ししてるみたいな言い方して」と言って泣かれて往生したと言っていました。「小うるさい」という感想を撤回はしませんが、反応が激しすぎるので困惑しています。彼女が「泣いた」!? 超びっくり。外見はどう見ても「ガハハおばさん」なのに。

 50歳前後の女性なら誰でもこういう状態になるようですので、あえて症状の「名前」は書きません。ただ、この人より年が若く、かつ性別も異にする私にとって、相当こたえる状況であるのは間違いありません。
 先日、ついにこの人と喧嘩してしまいました。その後彼女は私を意図的に避けているようです。そういう人と顔を合わせるのは正直たまらんのですが、だからと言ってバッサリ切り捨てようとは思わないので困っています。

 彼女にどう接したらよいか悩んだので、この症状の「名前」(漢字5文字)でネット検索してみました。この年代の女性本人に向けたサイトはたくさん引っかかってきますが、こういう女性を抱えた「周囲」に向けてのサイトはないようです。
 上記のサイトを総合すると、産婦人科の治療を受ければ症状は軽減されるようです。しかし、彼女は医者嫌いなので、まず医者にはかからないでしょう。

 というわけで、私としてはそっとしておく以外にないようです。
 本人が一番つらいんだろうとは思いますが、周りだってつらいんだよ。

 ほなさいなら。
posted by 為栗 裕雅 at 18:48| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月11日

うん子、おしっ子、ちん子…

 扇情的な(?)タイトルを掲げました。まずは以下の新聞記事をお読み下さい。

20071011-1.jpg

 世も末だと思います。もちろん、学校だよりに「うん子」と書いた校長が、ではなく、こんな下らないことで盛り上がっている神奈川県が、です。

 こうしたことに目くじらを立てるのを、揚げ足取りといいます。神奈川県で教育に携わる人たちは、子どもが挨拶一つできないことに問題意識を感じていないのでしょうか。
 私は、神奈川県内の学習塾で講師をして生計を立てていたことがあります。授業は会社の方針で「気をつけ」「礼」で始めることになっていましたが、私は少しでもおろそかにする生徒がいれば何度でもやり直しをさせました。たとえ授業時間が削られることになってもです。挨拶はそれだけ大事なことだと思いますし、幼少期にきちんと身につけていないと大人になってからでは習慣になりません。民間でもこの程度の問題意識は持っています。
 「挨拶は大切だ」という真理すら、今の日本社会ではコンセンサスになっていないのです。このことに戦慄を覚えます。

 本件を伝えた複数の新聞記事を読む限り、校長の文で本当に言いたいことは「挨拶の大切さ」ということに尽きると思います。言葉尻だけを拾って「うん子」「どついたろか」を問題にするというのは、どういう背景があるのでしょうか。「どついたろか」にしたって、「という気持ちになってしまいます」ですから、実際に「どつく」わけではないのです。
 しかも、横浜市議会はそんなにヒマなんでしょうか。「決算特別委員会」だそうですから、他に大きな議題があったはずです。それでも「そのとおり、挨拶は大切だ」という形でこの学校だよりを取り上げたなら、まだ救いがあったと思います。これでは「ためにする」批判にしかなりません。
 おそらく、色々と政治的な背景があるのでしょう。想像するに、本件を追及した議員が公明党だったことからして、この校長は共産党系ではないでしょうか。それ以外に、こんな些細なことが議会で槍玉に挙げられる理由は思いつきません。(仮定が当たっていれば、それゆえにこの校長は迂闊だったと思いますが、脇に置きます。)

 もう一つ。子どもだけでなく、議員も子どもの親も、知的水準が下がってきていると思います。これも塾時代の経験ですが、授業でわざと幼児語を使った時、成績上位のクラスではこれが冗談だとまだわかってくれますが、下位クラスで「変な言葉遣いをしないで欲しい」と真面目に抗議されて唖然としたことがあります。冗談が通じない、レトリックが通じない…。言葉遊びは一定の知的水準がないと無理なんでちゅね。

 校長が共産党系と決まったわけではないのですが、一応お断り。私は、中学時代に個人的に発行していた新聞で、地元の自衛隊駐屯地で行われた「自衛隊まつり」を好意的に取り上げたことを契機に、共産党員の教師から徹底的にいびられた過去があります。従って共産党に対しては嫌悪感を持っているのですが、本件は是々非々という観点から擁護しました。

 ま、俺もあと20年くらいでこの世からおさらばさ。ほなさいなら。
posted by 為栗 裕雅 at 18:27| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月31日

謹賀新年2008

 まだ2時間半ほど早いですが、フライングで「あけましておめでとうございます」。
 為栗裕雅および「遊牧民の窓」を、2008年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 ブログに記事を書いている余裕があまりないので、とりあえず生存のご報告です。ほなさいなら。
posted by 為栗 裕雅 at 21:30| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月29日

子どもがかわいいのは精々5歳ぐらいまで

 先日見てきた芝居で、どうしても書き残しておきたいセリフがあったので紹介します。公演はすでに終わっていますので、ネタバレにはならないと思います。

(蒸発した父と、十数年ぶりに再会した娘との会話。父が娘に「もう1回一緒に暮らそう」と言っているシーンで)
 娘:どうして蒸発したの?
 父:子どもなんてのはね、かわいいのは精々5歳ぐらいまでなんですよ。そして25歳ぐらいになったら親の面倒を見るものなんですよ。
(原武昭彦『ドラゴンビルサービス』)

 実生活でこういう厚かましいセリフが嫌味なく吐けるようになれば、私ももう少し大人になれるのでしょう。と同時に、少しだけ自省しました。25歳という年齢が忘却の彼方に行ってしまった私の生活に、「親の面倒」という言葉が存在しているのかどうか。いや、存在してはいるのですが「親の面倒をみる」ではなくて「親の面倒になっている」という意味ですね。
 この芝居は私の知人が出演していたので見に行ってきました(12月24日、於中野)。どういうわけか私の知り合いには演劇をやっている人が多いのです。私もそのうち脚本デビューぐらいしてしまうかもしれません。
 ほなさいなら。
posted by 為栗 裕雅 at 07:14| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月05日

鳥取と島根には大きな違いがある

 8月3・4日に金沢→福井→鳥取→松江とハシゴして、今朝帰って来ました。
 先月中旬から仕事の勤務日を減らしてもらったので、その分時間に余裕ができました。というわけで、これまでの欲求不満を一気に晴らすかのように、遠出しまくっております。といっても、ある目的からいろんな場所を駆け足でハシゴしているだけで、相変わらず観光とは程遠いです。金沢には複数回行っているのに兼六園には1回も行ったことはないし、鳥取砂丘も小泉八雲記念館も同様です。いつか行ってみたいとは思っていますが。

 さて、「山陰」という言葉でひとくくりにされてしまいがちな鳥取県と島根県ですが、今回ある点でカラーがくっきり異なると感じました。何かというと、「東京」という単語に対しての感受性です。
 内容は伏せますが、銀行窓口での応対が鳥取と島根では全然違ったのです。今回は銀行の本店営業部にばかり行きましたが、現住所が東京都内であることを示した時に、鳥取以東と島根(松江)では反応が違いました。松江A行の窓口では「東京在住」という言葉を耳にしただけで役席者が後ろからすっ飛んできましたし、B行では書類を受け取ったテラーの女性が後方に相談に行きました。そしてどちらも私の要求は充たされませんでした。なお、鳥取以東では、テラーさんと話をするだけで役席と絡む局面はなく、もちろん私の求めることは達成されました(用事が済んだ後で役席さんが挨拶に出てきたことはありましたが)。これは何を意味するのか。
 私の用事がまだらに達成されたのなら単なる偶然でしょうが、鳥取までの行程で私の要求は100%充たされています。それが松江で一気に全面拒絶。私が思うに、これは「東京」という言葉への感受性ではないでしょうか。鳥取では東京はさほど遠い場所とも思われないが、島根でははるか遠い場所に感じられる。「東京」という言葉にビビッてしまったから、役席が飛んできたし、テラーが奥に相談に行ったわけです。
 同じようなことは、山陽側でも起こると想像します。鳥取・島根の例を敷衍すると、距離的には岡山−広島県境がボーダーになるでしょうが、山陽側ではもう少し遠くに延びるかもしれません。四国でいうと、東半分と西半分では違うかもしれません。東北にももちろんあるでしょうね。
 JR山陰本線で行くと、米子を出て間もなく県境を越えますが、短いトンネルがあるだけであっけないものです。そこが、こういう境界線になっている。松江2行での用事が達成されなかったのは残念でしたが、こういう認識を得ることができたのは収穫だったと思います。

 ほなさいなら。
posted by 為栗 裕雅 at 18:44| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
記事一覧(最新の20本)